青くてごめんね

書きたいことをね、自由に書きます

とりあえず生きる意味は無い

以前から積極的に生きる理由はなかった。

 

最近になってやっと、生きる理由   という曖昧な言葉を区切る手段をひとつだけ見つけた。稚拙に過ぎるが、生きたい という積極的意欲と、生きなければならないという消極的義務である

よく、生きる理由?そんなの無いぜ!人生は暇つぶし! みたいに悲しく片付けてしまうが、そう簡単に割り切れる質ではない

そしてようやっと、義務以外の意欲が無いことに気づいた。

これから言うことも他者の口から呆れるほど繰り返されたことだろうが、、

もちろん、散々綴っているように食や娯楽はたしかに楽しい。だが、それを上回る義務(社会的立場を守るため、自身を知る他者のため)があるため、それらの維持にかかる心的労力が多すぎる

 

金が無ければまんまは食えない。

金稼ぎマシンでいられることは幸福なのか?

 

 

私は残念ながら凡庸、それ以下に分類されるよくいる短足小デブ不細工であるために、例えばその娘の笑顔で全て吹き飛ぶ

的な世界観には生を得なかった。外面的魅力の欠如は何かで補わなければならないが、

このように卑屈で無意識の底まで劣等感が染み付いた精神は言うまでもなく、

真面目 だけ唯一取り柄として挙げたいところだが、真面目にやっても通常以下のパフォーマンスしか発揮できず、

ともかくも、職場における人間的価値ゼロなのである。   しかしこんな奴でも、やはり人並みに仕事は辛い。

今日は幸いにも金曜日、今は22:33である。これから48時間は「自由」が与えられている。

 

そのための120時間なのか?

 

正直、職場は俗に言うホワイトだろうと、『過労死しない生き方』という新書を読んで悟った。先月残業がたった30時間に達する勢いだったが、上司および周囲はやんわり無理しないでねもとい無理すると色々響くからソコントコ夜露死苦オーラがあったために、今月は大人しく働いている。残業は申請した分出るし、その点において、社畜、ではない。

 

しかし、金と引き換えに平日の約11時間を差し出すのは、しんどい。しんどいと感じる当たり、社会人一年目らしいじゃないかと微笑ましさすら覚えてゾッとする。初めて同人誌を描いた時、1日8時間描き続けて本当に苦心しながら描きあげた記憶があるが、

当然のようにそれ以上の拘束、それ以上の責任が課せられている。青く見える、隣の芝生。座席と在宅の関係で聞くに聞けない質問。盛り上がっている他の島。楽しそうに話す他部署の同期。

 

今日は死んだ目で出勤し、荒んだ心のまま退勤した。途中、意味不明な電話を受けるのは数秒であるが、悔しいことにこうした精神性のヤツには暫く染み付くのである。こちらが懇切丁寧に説明したお返しが「ちょっと意味が分からないんですが」って、大丈夫かお前の頭と性格。意味が分からない、と、人間に向けて発したことはない。コミュニケーションは意思疎通のためにある。こちらは積極的にその働きかけをしている。よってその言葉は最高の暴力である―相手の善意を否定するための。そのことにすら思慮が及んだことが1ミリも無いからこそ、無礼極まりない先の言葉となるのだろう。大した人間ではないことがその一言だけで容易く読み取れてしまう。昨日は、システム利用の方法を質問し、その返答を聞くや否や「はぁーーつまりはやりなさいってことなんですね、はいはい」と自己解決した馬鹿に時間を取られた。こうした他者の心情を汲むことが出来ない自己中心的人物の方が長生きする、という悪しき逆説を恨む。実際、こうした図太いもとい無神経な精神の持ち主のほうが生きやすいだろう

 

悪意の無い迷惑行為こそタチの悪いものは無い。筆者は新人下っ端のため、仕事で扱う郵便物処理をしており、タイミングによっては隣の部署の同ポジションの社員が気を利かせて(?)、筆者の部署の郵便物をついでに持ってきてくれる。

しかしこれが、至極面倒なのである。まず、持ってきてもらったならば、お返しとして持ってき返すつまり相手の部署の郵便物があったならば運ぶのが礼儀、というムードが醸成される。しばらくそれに従っていたが、自部署のもので正直精神的にも時間的にもギリギリなので、背負わされた申し訳なさに苛つきながら、こちらからは触れないでいた。

次に、こちらのほうが問題だが、運ばれた郵便物はもちろん筆者がひとつひとつ検め、担当に渡さなければならない。この作業も、大量の郵便物を開封し担当者を調べ担当者の元に運び封筒の処分をする、というのに30分はくだらない。しかも毎回であるからただでさえ苦痛である。

これを、この郵便物を、向こうのタイミングで、「善意で」持ってこられるのだから堪らない。「これ、お願いしますね♪」と郵便物の束を、既に他の業務資料で山積みになったデスクに置かれて「ありがとうございますっ!」と感謝の意を形だけでも歯を食いしばって示さなければならない、その苦しさと言ったら。

向こうからしたらいい事をした、と思っているのだろう。実際は真逆である。置かれた時点で無視できなくなるソレに、確実に15-30分の時間を割く必要が生じるのである。

 

お前の善意という精神的オナニーに付き合わせるんじゃねえ!!!!!!!!!!

 

と叫びたくなる。

 

 

 

生きていると理不尽だらけであるが、仕事は深く考えてはいけないことしかない。

先日は、先輩が「体調不良で在宅勤務」としていたため、最大限礼儀を尽くした上で同じように「体調不良で在宅勤務とさせていただいた」ら、

その発言は不適切なので削除してください、と言われたり、

毎朝当人の作業予定を報告する朝礼に電話対応で出られなかったら、

(普通であれば「○○さん電話対応中です」と誰かがフォローするところ、)フォローされなかったばかりか筆者の存在自体無かったことにされ、筆者が朝会不参加であることにすら誰もツッコミを入れていなかったこともあった。

 

 

白状すると、この出来事で私は「キレ」た。怒ったのではない。絶望し、ただの『駒』とすら思われていないことに気付いてしまった。

その後周囲の対応はいつもと変わらなかったが、所詮筆者はいてもいなくても正直なところどうでもいいかな〜  という程度の存在だということが、すっかり露呈してしまったのである。

 

 

涙が出そうになった。悔しくて。マスクの中で唇を噛んだ。その熱情が去ると、後に残ったのは壁であった。もう精神的な壁で持って守るしかない。

人間関係を築く最低限の起伏を心がけ、「金稼ぎマシン」になることに努めた。いや、努めている。はやくも朝起きるのがしんどくなっているが

 

 

そしてまた冒頭に戻るのである。こんな、滑稽でしかない金稼ぎマシンが多数を占める日常に何の意味があるのか。恵まれたものは特になく、守り続けたいものも特にない。

金稼ぎマシンであり続けるには、単に11時間演じれば良いという訳では無い。家に帰れば生活を紡ぐための活動、家事に勤しまなければならない。つかの間の現実逃避、そしてまた明日のための就寝。

 

何のために寝るのか疑問に思い、心を無にして起床する。

朝起きれば不細工とご対面である。醜く朝食を食べ散らし、その他大勢とともに電車に乗る。

もう、社会人になった時点で、その他大勢の運命は決まった。一生この中で暮らしていける、働きさえすれば。

 

しかし生き続けることに何のメリットがある?あくせく心を殺して働いて、たった48時間の瞬間に何をするという?その48時間のために残りを捧げなければならないのかと思うと、そんなに満ち満ちた時間にする責任すら感じる

ひとまず、毎日つらい、仕事がなくても劣等感で死にそうだったのに、素直に素朴に辛い仕事が加われば、それは辛いのは必然である

 

 

皆、何のために生きられる?生きている?本当にそう思う。燦然と輝く人生の目標を掲げ、達成せしめんとすることに全て捧げ、それされあれば平日5日間棒に振っても吝かでない、という人種は少なくとも毎日目にする人の群れの中にはひと握り程度に思われる

 

 

実は皆、自殺予備軍なのか?希死念慮に苛まれながらも、それぞれの立場を演じているのか?

 

筆者が悩みすぎる性質であるのは間違いないが、能天気人間が多数を占めるという訳でもあるまい。人はこうも似ているのに、実は全く異なる考えを持っていて、たまたま共通する部分が生活で露わになっているだけなのか?それはある意味で奇跡的であるし、不安定なその社会がよくも維持されていると感心する

 

 

 

私は、少なくとも一日に1回は死について考えるし、

基本的に自身は他者に比べ価値がないために振る舞いに留意せねばと思っている(今やそれが重荷となって、乱雑な所作となってしまっているのだが)

底知れぬ劣等感に苛まれているために、思考の隙間があればひりつく痛みに締め付けられそうになる。

 

 

特に最近、生きる希望、生き続ける活力を見い出せなくなっているから、

何もかも億劫で苦しい。死にたい、死にたい、とカジュアルに唱えながら仕事をしている。